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ふむふむ、木村硝子店のなかまたち。前編

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第6回 前編

麹谷宏(グラフィックデザイナー)×木村武史(木村硝子店社長)

麹谷宏さんが考案された、木村硝子店の「トラベルグラス」。
このグラスの誕生には、少年時代にデザインの道に進むことを決意し、グラフィックデザイナーとして大阪、東京、パリ、と拠点を移しながら第一線で活躍されるなかでワインに出逢い、魅せられていくまでの長い歴史が関わっています。日本における「ワインのはじまりの時代」の楽しいエピソードを交えて、お話を伺います。

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ワインには「ものがたり」があるでしょう。
僕は、そこに惹かれたんです。

—お酒はなんでも飲まれるのですか?

麹谷 基本的には何でも飲みます。状況によりますけどね。風呂上がりなら、どんな赤ワインよりもビールの方が美味しいですよね。真夏に外から帰ってきて、喉が渇いているときはロマネコンティは美味しくないと思います。そんなときもやっぱりビールがいい。

木村 麹谷さんはシャンパンかと思っていましたよ。

麹谷 あっ、しまった。シャンパーニュがあったか(笑)。
僕はアルコールに弱いくせに、どんなお酒にも手が出てしまうのです。スピリッツなども好きです。

木村 田崎真也さんもTPO主義でいらっしゃいますよね。

麹谷 田崎真也さんは、日本ソムリエ協会と世界ソムリエ協会の会長を兼任されていますが、よく、「日本のソムリエが日本酒を知らなくてどうする」っておっしゃいます。ソムリエという仕事は、ワインだけの仕事じゃないんですね。食事の飲み物全般の責任を担うので、田崎さんの食卓ではフランス料理であっても途中で日本酒が振舞われたりすることもあるんです。

木村 そうですね。

木村 日本よりも、ヨーロッパの人たちって地酒を美味しいと言っていることはあるんでしょうか?僕ね、彼らって、実はひとのお酒をあまり飲んでいないような気がするんです。オーストリア人、イギリス、ドイツのような、あまりワインを生産していない国の人たちが、あそこはどうだこうだって、格付けをしているような気がします。対する日本は、酒を仕込む単位が小さいせいもあって、昔から比較しながらいろんな酒を飲んでいるんですよね。ヨーロッパ人は自分の作った酒しか飲んでいなくて、そこが大きいのかしらって僕は思うのですが。

麹谷 同感ですね。イタリアであろうがフランスであろうが、自分たちの造った酒が一番うまいと思い込んでいるのは正しいですね(笑)。ただ、今はもう情報は世界中に行き渡っていますからね。日本人は好奇心が強いですし、世界中のおいしいものは日本にすべて集まってきているんじゃないですか?だから東京に来るとみんなびっくりするでしょう。こんな話があるのです。わたしが、ブルゴーニュの隣のジュラの街に行った時のことです。そこで私が「ブルゴーニュのワインはないの」ときいたら、「ここには、こんなにおいしいワインがあるのにどうしてわざわざよそのものを仕入れる必要があるんだ」と言われたことがあります。見識だな、と感じ入りました。

木村 なるほど。

—ワインは、麹谷さんにとって特別な存在なのでしょうね。

麹谷 僕はワインの物語に惚れて好きになっていったんですよ。もちろん、液体そのものもですが(笑)。地方によって違うことや、歴史の中で活躍した人物の、ワインとの関わりの逸話の数々……。そういった、ワインの「ものがたり」に引き込まれたんです。

木村 今の人たちは、ワインも日本酒も同じようにストーリーを語る方が増えましたね。

麹谷 フランスに勉強に行くひとも増えました。

木村 それで、日本に戻ってから日本酒を作り始めたりもしますよね。

麹谷 今の日本の若い醸造家たちは、米から作り出すんですよね。ワインの醸造家たちがブドウから育てるのと同じで。いままでの日本酒の作り手は、仕込むところからでしたが、そこが変化しています。まずは土壌から稲の話、米の話から始まる。そうなってくるともう、ワインと同じ。これが日本酒が変わったと言われる大きな部分かもしれませんね。ものがたりがあるんですよね。昔は「原料は何?」っていっても、「問屋に任せてあるから」という話だったでしょう。

木村 確かに、そういった意味ではすごく変化してきていますね。

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麹谷さんがベニスの職人たちと一緒に作ったシャンパンクーラー

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僕のデザインの原体験は、
教科書を墨で塗りつぶしたこと

木村 麹谷さんは奈良県のご出身だそうですね。そもそも、ワインに巡り合うまでにどのような青年期を過ごされたのか、興味があります。

麹谷 はい。僕の場合はワインの前に、まずデザインとの出会いがあるのです。デザインが天職となり、そのあとで出会ったワインはあくまでも趣味です。僕は奈良の写真館の息子で、奈良公園を庭みたいにして育ちました。学校でも、写生の場所といえば奈良公園。松の木をその通りに描くのはつまらないと、枝を赤く描くような子供でした。先生にはすごく怒られましてね。そういうことがたくさんあって、皆と同じことはしたくないという意識に気づいていった気がします。

—理解してくれる人はおありだったのですか?

麹谷 高校は奈良のエリート進学校に通っていて、成績順に理数科の良い大学を受験するようなコースにいたんです。でも、こういう性格もあって、体制にはめられて進むことに抵抗があった。それでドロップアウトしたんですね。それを受け入れてくれたのが父親でした。

木村 どうなったのですか?

麹谷 父は面白い人で、「どうせ写真館を継ぐんだから、嫌だったらやめたらいいよ。でも、高校は出ておいたほうがいい」と言って、図案科のある、大阪の美術学校を勧めてくれたのです。そこに入ったら、それはもう面白くてね。それまでとは逆で、むしろ、ひとと違うことをしてはじめて褒められるような環境で。天職を掴んだ、人生のターニングポイントでしたね。

—お父様のおかげなんですね。

麹谷 そうですね。まだ、「デザイン」といえばファッションのことを指す時代で、「グラフィックデザイン」という言葉もない頃でした。デザインといえば終戦が小学校の2年生の夏。その秋の最初の授業が、昨日まで使っていた教科書の支持部分を墨の筆で塗りつぶすことだったのです。

—映画では見たことがありますが、実際のお話は初めてです。

麹谷 僕の中ではその作業がすごく面白くてね。今思えば、一番最初にデザインマインドに触れた瞬間だったのかもしれません。真っ黒にする人もいれば、ぐちゃぐちゃに塗る子もいた。僕は、いかにきれいに塗るか、それが楽しかった。

木村 小学一年生なんて記憶にないです。よほど鮮烈な出来事だったのですね。僕はずっと湯島なのですが、始業式の度に、「我が校卒業の横山大観先生は…」と校長先生の話が始まるの(笑)。卒業生だったんですよ。

麹谷 面白いですね。

木村 でね、校長室には横山大観の富士山の絵が2、3枚飾ってある。

麹谷 すごいなあ。

木村 イヤイヤ。でも、一番覚えている絵といったら、恐らくあれでしたね。ところで、黒く塗りつぶす話と、デザインとの関係に気付かれたのは?

麹谷 もちろんずっと後になってからですよ(笑)。

木村 そういうことって、記憶にない方がほとんどではないでしょうか?

麹谷 どうでしょう。

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本物を好きなのは、文化財が
遊び場だったせいかも知れません

麹谷 奈良は、空襲は受けずに昔のまま残りました。今思えば、観光客なんていないし、修学旅行もまだない時代の奈良公園はよかった。子供の遊びには自由勝手な最高の環境です。なにしろ、誰もいないし何もないから、国宝のお寺に石を投げて遊んだりしていたわけ。ただ、夜は6時になると商店街はほとんど閉まってしまうような、暗くて寂しい街でした。映画館はあるけれどコンサートや美術展はない、本当に田舎街で。ときどき家族と神戸や大阪、京都に食事に行ったり、そういうことが唯一の楽しみで、どうして僕は、こんな寂しい街に生まれてきたのかと恨めしく思いました。奈良が好きになったのは、大人になってからです。

木村 でも、すごい話ですよ。国宝が遊び場だったって(笑)!

麹谷 しかもね、興福寺の五重塔が一時我が家のものだったという愉快な話があるんですよ。明治初頭に起こった廃仏毀釈運動に、日本各地で寺院、仏像、仏具などの破壊や盗難が平然と行われたのです。ですが、個人蔵は無事というので奈良の人たちは神道家筋に狙われていると噂の仏像やお寺の建物などを個人で買って守ったのです。我が一族は、五重塔に身代を張った……というわけです。しかし、そんな馬鹿騒ぎはすぐに終わり、奪うように取り上げられ、またもとに収まった、という。しかし、残念なことに記録がないんですよ。

木村 びっくりさせられるお話ですね。そのような時期があったとは!

麹谷 後年いろいろ調べてみたんです。そうしたら、司馬遼太郎さんの「街道をゆく24 近江散歩 奈良散歩(朝日新聞出版)」のなかで、興福寺の五重塔の返還の話がでてくるんです。興奮しました。偶然司馬さんと仕事のご縁があり、お目にかかれる機会にこの話を、と思っていたら亡くなってしまわれて……。

木村 それは残念ですね。でもそういった、幼い頃から本物と対峙してきた記憶は、麹谷さんの中に生きていらっしゃるのでしょうね。

麹谷 どうでしょう?先祖相伝の血筋という意味なら、僕の家系は、母方が奈良の骨董商、父方は大阪の新町で、瀬戸内海の港町を船で結んで商う貸し布団商をやっていたようです。港港の色町に新しいふとんを貸して、古い布団を引き上げ、それをまた次の港に運ぶ間に新しい布団に仕立て直す。甲板の上にふとんを打ち直す工場を持っていて、回遊式工場船なんて、商材的にも時間的にもムダがなく、合理的で面白いアイデアですよね。そういう先祖の血と、僕のおもしろいこと至上主義な精神とは、繋がっているのかもしれません。

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トランペットに明け暮れた
大阪工芸高校図案科時代

—奈良から大阪に通うようになられて、カルチャーショックはありましたか?

麹谷 終戦後すぐにモダンジャズが日本に入ってきて、FNNでも聞けるようになりました。アメリカの超一流のジャズバンドも日本に来るようになるんですよね。ルイ・アームストロングとか。僕はすぐにかぶれて憧れるようになり、中学校のブラスバンドでトランペットをおぼえ、演奏会に出たりもしました。そこで、大阪に出てのカルチャーショックは、高校生の分際でも学生バンドを組めば、アルバイトで現金収入が得られることでした。学生バンドは人気があり、キャバレーのサブバンドでいいお金になりました。何分にもお金の使い方を知らない田舎出の学生ですから、どうしようかと思いましたよ。キャバレーでのアルバイトなんて、親には秘密ですし、食べることしか思いつかないのですが、豚まんを食べても25円、友達と大勢で行っても思うようにお金は減らずに増える一方。ほんとに困った。

木村 若い時からすごいんだなあ。

麹谷 このまま大人になっていけば、人生ちょろいもんだと思っていたのですが、そうはいかなかった。でも、その頃ヒットしていた「オーマイパパ」とか、「セレサローサ」とか、トランペットメインの曲を吹くと、踊っている客がみんながこっちを見上げて聞いてくれる。最高の気分でしたね。

木村 トランペットは続けなかったのですか?

麹谷 そうなんですよ。僕の前歯の並び方に問題があって、マウスピースを使う吹奏楽器には向いていないことがわかり、諦めたのです。

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早川良雄先生の事務所にて、
田中一光先生と出会う

木村 卒業されてからは、すぐにデザインの仕事を?

麹谷 実家に戻るか、トランペットを続けるか、卒業直前まで就職の予定がないのがクラスで僕ひとりだったんです。ある日、図案科の科長が、就職率100%が我が校の伝統なんだからと言ってきて(笑)。早川良雄先生という、グラフィックデザイナーの人間国宝のような方がいらっしゃるのですが、先生が弟子を探していて、推薦するから受けないかと。君は色感がよいから、後を継げるかもしれない、とおだてられて試験を受けたのです。当時、グラフィックデザインといえば大阪の時代でした。東京は「あんなとこ」って言われているくらいデザインテイストのやぼな街で、しゃれたデザインは大阪を中心に、神戸、京都にあった。早川先生はその中心にあって、世界中から日本の代表的グラフィックデザイナーとして注目されている方でした。父親に話をしたら、そんな話はまたとないだろうということで、写真館もトランペットも裏切って就職しました。

木村 面白いですね。そうすると、田中一光さんとは?

麹谷 当時、田中一光さんがグラフィックデザインの世界で頭角を現し始めた時期で、偶然奈良の方、ごく近所の方でした。でも、あったことはないから顔も知らなくて。彼は大阪の産経新聞に通い、僕は工芸高校に通っていたのですが、「このひとがご本人に違いない」と思っていたひとが毎朝電車の中にいて。

木村 勝手に思い込んでいらしたのですね(笑)。

麹谷 そうなんです。ところが、早川先生のアトリエに就職してからのことです。ある日、僕が保険の外交員と思い込んだ来客がいたんですよ。「今のひとはだれ?」と聞いたら「馬鹿ねえ、あのひとが田中一光さんよ」って事務所の先輩が言うんです。「え!じゃあ僕がいままで田中一光だと思っていたひとは一体だれだったんだろう!」って(笑)。しょぼい紺の背広を着て風呂敷包み持っていた、さっきのひとが田中さんだなんて!話を聞いた早川先生がやけにおもしろがっちゃって、すぐに田中一光ご本人に電話して「君ねえ、新人くんに保険の外交員と間違われたんだよ」なんて大笑いになってね。でも、僕にとっては真っ青になるような出来事でしたよ。1957年のことです。

木村 田中さんは普段どんな服装をされていたのですか?

麹谷 それはもう、しょぼくれた背広を着ていましたよ、風呂敷包みを抱えて、というのが田中一光さんの当時の有名なスタイルだったんですって。風呂敷包みがトレードマーク。それで、いつも同じようなものを着ている印象だけど、実はすごくおしゃれで、同じ背広を2着とか、同じようなものをいくつも持って自分のスタイルを決めているということが分かったんです。

木村 そりゃあ、僕がユニクロのシャツを3枚買うのと一緒だね(笑)。

麹谷 幸い、この一件を田中一光さんは面白がってくださって、それから毎晩連れ回してもらうようになって。

木村 お付き合いはどれくらい続いたのですか?

麹谷 亡くなられたのが2002年でしたから、40年くらいでしたね。
奈良の実家から大阪に通勤していた2年間は、ほとんど毎晩一緒でした。でね、飲んでいる時間は楽しいのですが、帰りの電車でお説教になるの。近鉄奈良駅を降りて商店街を通って帰る途中、少し時間があるときには決まって、「おい、風呂入っていこう」って(笑)。

木村 本当にご近所なんですね。

麹谷 それで、風呂で背中を流しながらまだ話は続くわけです。週末も先生のお宅で仕事のお手伝い。田中一光という人はあんな天才なのに手先だけは不器用なひとで、せっかく書き上げた版下原稿なども、手伝うつもりで手を入れてダメにしてしまうの、必ず。だから、進み具合は見せるけれど手渡さないというのが苦労でしたね。

木村 それだけ長い時間毎日のようにいろんな話ができるというのはすごいですね。僕なんか、同じこと何回も話すことならできますけどねえ(笑)。

麹谷 面白かったし楽しかったし怖かったんですよ、田中さんの話は。小言とも違うデザイナーの生き方というかね。まだ彼は20代、僕は10代で。ジャズ、クラシック、オペラ、バレエ、モダンダンス、料理、古典美術、茶の湯、旅、と楽しいことはみな田中先生に教わり、一緒に勉強したのですが、ワインだけは僕任せで、いつなんどきも、「麹谷君にきいてごらん」と、夜中でも電話があったほどでした(笑)。

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東京、世界デザイン会議、
そして、パリとワイン。

—いつごろ東京に拠点を移されるのですか?

麹谷 田中さんが1958年、僕は1959年です。1960年に世界デザイン会議が開かれ、この年は、日本のデザイン界にとって重要な年となりました。世界中のアーチストが日本に集まり、東京は世界のデザイン都市へという、デザインへの目覚めがありました。さまざまな展覧会やシンポジウムが開かれ、次世代へとつなげる熱気がありました。

木村 日本の流動期でしたね。同時代的にグラフィックが花開いた。そこから64年の東京オリンピックですものね。

麹谷 そうです。デザイン国日本が世界に認められる素晴らしい機会でした。

—日本のグラフィックデザインの何が優れていたのでしょうか?

麹谷 日本文化の美意識の中には、純化と言われる複雑なものを純粋なものにまとめて表現しようとする能力があるのです。琳派を、紋章美を育んだ日本人の血が持つ、この独特の感覚が、コミュニケーションデザインとしてのグラフィックデザインにぴったり寄り添って表現されていることに、西洋のひとたちは早川良雄を神様と思い、田中一光を天才とみたのでしょう。

—東京に来られるきっかけはどのような?

麹谷 1960年に亀倉雄策、原弘、山城隆一という東京のビッグスリーデザイナーによって「日本デザインセンター」が設立され、ここに永井一正、片山利弘、木村恒久、横尾忠則といった関西のスーパースターが結集し、田中一光さんも参加。俄然東京が面白くなってきたのです。僕も急に東京に行きたくなってきて、早川先生の推薦で、銀座松屋の宣伝部に行くことになったのです。

木村 百貨店の宣伝部は当時の花形ですね。

麹谷 そうですね。当時のデパートというのは特別な存在で、世界中からファッショナブルなあらゆる情報が集まる所として光り輝いていました。銀座松屋は、特にデザインイメージの強いおしゃれな店で、宣伝部はモダンライフスタイルの発信地でした。衣食住すべてに関わる仕事は面白かった。なんでも引き受け、起きている間は仕事に明け暮れていました。徹夜もしょっちゅうだから、アパートは着替えに帰るだけ、という生活。最高に楽しい日々でした。そうして、67年にフランスに行くことになりました。パリのデザイナーが、日本人デザイナーを探していて、田中一光さんのご紹介でデザインパートナーとしてパリのシャンゼリゼのオフィスに入りました。カッコよく聞こえるでしょうが、この時、僕の英語はブロークン、フランス語は一言も話せなかったんですよ。

後編に続く…

Tensen

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